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『聖金口イオアン聖体礼儀』作品41(せいきんこういおあんせいたいれいぎ、教会スラヴ語: )はロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキーが1878年に作曲した正教会の奉神礼音楽。金口イオアンの定めた聖金口イオアン聖体礼儀に曲づけを行った、無伴奏の混声合唱による聖歌である。ロシア正教会、ウクライナ正教会をはじめとして、日本正教会を含めた世界中の正教会の奉神礼で実際に一部が用いられる事もある。ただし基本的には演奏会等で歌われる事が多い。 歌唱は教会スラヴ語による。 なお、一般に見受けられる『聖ヨハネ・クリュソストモスの典礼』『聖ヨハネス・クリソストムスの典礼』等といった表記は誤訳である〔出典:「聖体礼儀」「奉神礼」等の正教会の語彙II&誤訳例 〕。 == 作曲の経緯 == オペラ:エフゲニー・オネーギンと交響曲第4番を完成させてすぐ、1878年の5月から7月という僅か3ヶ月で、『聖金口イオアン聖体礼儀』は完成された。 ナジェジダ・フォン・メックへの手紙にチャイコフスキーはこう書いている。 教会には多くの偉大なる詩的な美があります。私は奉神礼によく参祷しましたが、私の考えでは聖金口イオアン聖体礼儀は藝術の中でも最も偉大なものの一つです。かの奉神礼に加わる者は誰でも、精神を揺り動かされずにはいられないでしょう。 しかしこの時代、帝室聖堂の許可の無い新たな正教会聖歌の作曲作品を歌うことは禁じられていた。1825年にボルトニャンスキーが永眠して以降、聖歌の管理・検閲を担当する者には、権力欲は強くとも音楽には通じていない者ばかりが就いていた。 この事情をチャイコフスキーはよく承知していた。ナジェジダ・フォン・メックに彼はこうも書いている。 教会音楽の作曲は帝室聖堂が独占しているかのようです。そこでは嫉妬による独占の死守が行われており、聖なるテクストに対する新たな作曲が行われる事に対しては強硬な反発を受けます。(1878年4月30日) 『聖金口イオアン聖体礼儀』(作品41)がユルゲンソンから出版されると、帝室聖堂のバフメテフなどは、教会音楽の独占を維持しようとして猛反発した。結果、1880年まで続く法廷闘争にまで至ったが、最終的にはユルゲンソンが訴訟に勝利した。 なお初演は訴訟の決着が着く前に、キエフ大学教会にて1879年6月に行われた。教会音楽を作曲した事はチャイコフスキーにとり喜びであった。 1880年12月にはモスクワ音楽学院で演奏された。演奏会は大成功であったが、教会の権威ある者からは教会音楽に適していないとの評価もあった。 本作品は1893年のチャイコフスキーの埋葬式において歌われた。以降、現代に至るまで本作品は世界各地の正教会で時に部分的に取り上げられて歌われている(これはチャイコフスキー作曲の本作品に限らず、そもそも一人の作曲家による作品のみで一つの奉神礼を歌い切る事は、教会では極僅かな例外を除きほぼ皆無である)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「聖金口イオアン聖体礼儀 (チャイコフスキー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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